現実レベルか、アニメなのか、書割背景の舞台か、絵コンテなのか、シルエットグラフィックなのか。

小説を読むとき、その映像を思い浮かべることができるか。
という話題が巷で俎上に載っているので乗じてみる。

結論から言うなら、そんなもん読む本によって違うわい、てなもんである。

正直、一律に自分は出来る出来ないと括り上げるのは理解できない。出来ないという人は本当にどんな本でもできないのだろうか。逆に出来るという人はどんな小説でも映像変換して読んでいるのだろうか。どちらにしても、まあそりゃあすごいっ、てな感じで感嘆である。
ならば、自分は中途半端なのだろう。

してる時もありゃあ、一切映像変換せずダイレクトに文字情報として入力している場合もある。読む本によって違うわい、と喚いたが、実際は一冊の小説の中でも映像変換している部分と文字情報としてそのまま受け取っている部分とが混在していると言っていい。それこそ、数行単位か文字単位でコロコロと転換している。いや、転換というより同期していると言った方がいいか。同時入力である。
それに、映像に変換すると言っても、その範疇は上記したように現実レベルのリアリティを有したものから、うっすらと影絵のようなものが動いているレベルまで様々だ。それどころか、映像のように動いているのではなく、漫画のように一枚絵、一コマが連なる、もしくは飛び飛びで映し出される、というような形も多い。
そうしたものが脳内で混沌と蠢き、物語と言うものを脳内で立脚消化していく。てっきり、小説を読むとはそういうものだと思っていた。他人もそうだと漠然と思っていたのだが、どうやら違っていたらしい。
不思議発見である。


 確かに映像化しやすい文章を書く作家、しにくい文章を書く作家というのはあると思う。そう感じる部分が他の人と一緒かどうかはわからないが。
 ライトノベルには挿絵や人物絵が付与されているが、私の場合これはさほど文章の映像変換に左右されない。もちろん、あった方が映像変換しやすいのだから、充分左右されてるのかもしれないが。
 たとえば、私が大ファンの作家の中で川上稔という人がいる。都市シリーズやAHEADシリーズを書いた人だ。言っちゃなんだが、私はAHEADシリーズに関しては、自分でも面食らうほどさっぱり映像を思い浮かべられなかった。私がこの作家に嵌まったのが、処女作である【機甲都市ベルリン1935】のラストにおける幻想的な大気圏脱出シーン――ひいては作中文章全体から映画を見ているように感じた視覚的ダイナミックさ――であることを思えば隔世の感ありである。まあ、この人の場合次の倫敦では既に、映像化しにくくなってたし、後々の都市シリーズでもその傾向は深化していったのだが。
 とはいえ、その「さっぱり」のAHEADシリーズでだって、たとえば侵攻してきた米国UCATを前に、我らが佐山がでっけースクリーンで新庄といちゃいちゃするシーンなど、ばっちり脳内で映像変換できていたりする。
 つまるところ、程度の差、ということなのだろう。


 ちなみに、書く方の立場から回想するなら、私の場合は徹底的に映像化してから文章化する傾向にあるようだ。これは意図したものではなく、性分なのだろう。心理描写に透徹する場面でさえ、脳裏には当該人物が物思いに耽る情景が映っている。状況如何によっては、そんな彼彼女の周囲にいる人物の動向や、背景状況込で。
 まあ……手間はかかるし面倒だし、やんなるし、で。こういうやり方ってしんどいんだけどね。