ケイオスタイドの海を征く。サーヴァントたちでさえ侵食を受ける原初混沌の海。その中を、マスターであるぐだ子が入っていくのはどれほどの勇気だっただろう。どれほどの苦痛が暴れ狂っただろう。
サーヴァントですら、毎ターン最終的には1200ものダメージをくらうフィールドなんだぜ?
だが、みんなはそれを止めることなく、行けと言ってくれた。一緒に来てくれと言ってくれた。それが、どうしようもなく嬉しかったのだ。

弁慶、あの状況で生きていたということは、牛若があれほどのモノになれ果てていながらも情けを掛けたということなんですよね。あれほどの悪性を、あれほどの人類への憎悪を内に飼っていたことを晒し上げられてしまった牛若だけれど、あそこまでの極限の負を抽出された存在でありながら、それでもなおあそこで弁慶を見逃していたことが、あれほど死を振りまくことに特化した存在に成り果てながら、生きることを許す選択を出来たことが、牛若丸という子の真を示しているのではないだろうか。

ケツ姉、仲間になった時からなんだけれど、この人ほんとにぐだ子の事大好きだったですよね。
ぐだ子の言葉が尽く、この人なる神が好ましいと思っている生き様、在り方にどストラクだったからなんだろうけれど、毎回ケツ姉が「ズュウウウウウンッ!」とキュン死している姿がこっちも本当に好きでした。でもだからこそ、わかってしまったんですよね。
なによりも、ぐだ子の在り方を守るために。彼女が肯定してくれた自分の願いを守るために。ああ、この女神様も征くのだろうと。自ら笑って身を焼き尽くすのだろうと。
神としてではなく、人として。


それは贖罪ではなく、仲間として、サーヴァントとして、一時とはいえウルクの民として生きた証のため、貰った優しさを花の冠として戴いた蛇の女王もまた征く。
その初めて浮かべた微笑みは、忘れられないほど柔らかくて、ああ「彼女」だとはっきりとわかった。

神として人の世に、人類に否を突きつけ立ち塞がった、人間の世界を許さんとした女神たちが、今人理を守るために征く。神としてではなく、人として戦っていく。神としての誇りと矜持を掲げながらも人と為りウルクの民としてゆくのだ。
神代は終わる。これは人の世のはじまりの時代だ。でも、神は追い落とされ消え去るのではない。零落し成り下がるのではない。
この時、この特異点においてのみはこう断言できる。神は、人と同じ地平に立ってともに生き、歩き、戦って、新たな世を迎えたのだ、と。
ティアマトー。神代のはじまりに神たちによって無用とされ、邪魔と追われ、封じられた悲劇の母神。ウルクは、我らが最後のマスターは、貴女の悲劇を繰り返しはしなかったぞ。
さあ、決着のときだ。