【項羽と劉邦、あと田中】 古寺谷 雉/獅子猿  PASH! ブックス

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田中【たなか】(31歳・会社員)はある日突然、秦王朝末期の中国にタイムスリップ。
見知らぬ地を彷徨うなか、後の斉王・田横【でんおう】と出会い、
田中【でんちゅう】という名の一族の者と勘違いされ召し抱えられることに。

持ち前の弁舌を生かして重用され、田横らと親交を深める田中は、
現代に帰るために、そして田家の未来を変えるために時代のうねりに身を投じていく…。

新たな視点で楚漢戦争を描き出す、「小説家になろう」で話題沸騰の新機軸歴史ファンタジー。

これ、見てわかる通りタイトルのフォントが凄く凝ってるんですよね。このユーモアがきいてる感じは凄く好き。
さて、舞台は始皇帝が中国を統一した秦朝末期。いや、統一した途端に末期というあたりは考えさせられるものがありますが、ともあれこの秦滅亡から楚漢戦争に至る時代って司馬遼太郎の【項羽と劉邦】あたりが一番有名ですが、三国志なんぞと比べるとやはり知名度としては劣るんじゃないでしょうか。斯くいう自分も項羽や劉邦の家臣や、章邯あたりまでは知っていましたが、斉の田氏とか全然知らなかったんですよね。
殆ど未知の時代ということになるのですが、本作は軽快な語り口ながら丁寧に時代背景や、田中くんが見てる範囲のみならず、動乱の時代を迎えつつある中華の地で蠢き出す伏龍たちをじっくり描いてくれているので、余計にワクワクさせてくれるんですよ。
燕の地で牙を研ぐ項梁と若き項羽、ヤクザの親玉さながらに破落戸たちをまとめながら得体の知れない存在感を見せつける劉邦と、その個性的な仲間たち。蕭何さんのこの頃からの苦労っぷりな涙を誘います。そして、始皇帝の命を狙いながら各地を流離う張良。過酷な労役義務を果たせず死罪となる破滅の運命を前に、死なば諸共と立ち上がる陳勝と呉広。いつか秦を倒すために名を伏せ臥薪嘗胆する魏の臣張耳と陳余。幾人もの英傑たちが、まだ春秋戦国時代の余韻が残る秦王朝の黎明期に雌伏していたわけです。
田中さんが、迷い込んでしまったこのはるか古の中国の地で出会った男、田横もまた斉と呼ばれた地の王族として今も名望を保っている田氏の有力な一族の一人でした。
あらすじでは、同じ田氏と間違えられて召し抱えられた、という風に表現されてますけれど、あれって迷子になって困ってた田中さんを、田横が捨て犬拾うみたいに連れて帰って、ご飯と住むところの面倒みてあげた、という感じで部下にした云々という感じなんですよね。部下というよりも、すぐにもう身内みたいな扱いでしたし。あれって、田中さんが本当に遠い田氏の末裔なのかについては、田横はそもそもあんまり気にしている様子もなく、単にきっかけと他の面々への言い訳に使ったという感じでしたし、彼の兄である田栄も従兄で一族の長でもある田儋も田中の出自に関してはさほど気にしたようすもなかったですし。
最初は食客、それでも殆ど身内扱いでしたけれど田中さんが田横の好漢っぷりや他の田一族の人柄の良さに惹かれていき、この人達を破滅の運命から救いたいと願い、ただ自分が生き残るのを目的とするのではなく、この人たちと生きてこの人達と未来を夢見たい、と気構えを変えたその時から、家族同然の関係になっていくのであります。
なんで、部下と主人とかそういう関係は最初の方から殆ど見られないんですよね。だからこそ、田氏の皆のことがたまらなく好きになっていってしまうのですけれど。
ただ、確かにこの斉の田氏。周りが一族ばっかりで、一族主義と見做されても仕方ない部分はあるのですが、そこに一滴穴を穿ってくる巨大な存在が、のちに加わることになるのですが、そこには始皇帝の最期に関わる、大きくもあり小さくもある歴史の改変が起こることになるのですが、それは実際に作中にてご覧いただければ、と。
それにしても、田中さんのよく回る口の軽快さもさることながら、やっぱり一番目を引くのは田横のまさに好漢そのもの、という漢っぷりなんですよね。上の人間には可愛がられ、同輩とは肩を組んで笑いあい酒を酌み交わすような関係になり、下のものからはひたすら慕われる、という感じの本当に気持ちの良い男で、男が思わず惚れてしまう男なんですよね。
もう、めちゃくちゃ格好いいんだ、この人。実は、三十すぎてる田中くんよりも若い二十代後半なのですが、年齢関係なく兄貴分なのである。ただ、田中くんも表紙みてもあれで三十代というのは若いよなあ。せいぜい二十代前半、場合によっては高校生に見えてもおかしくないぞ。
ただ、ここぞというときに、田横に対して年上らしい頼りがいを見せてくれるので、ただただ口が回るだけの男ではないのである。あんまり軍師知恵者というところまではいかず、弁士というあたりが精々ではあるのですけれど、田氏の中では重要な知略担当として無骨な面々を頼りなくも支えていくことになるのである。いや、結構ちゃんと頼りにされてる節はあるんですけどね。田栄の息子である田広くんなんかには、からかわれながらも慕われていますし。意志薄弱だった田広が一念発起し、田横と田中の旅に同行して、メキメキと精神的に成長していくのを田中くんがめっちゃ嬉しそうに可愛がってるのとか、なんか微笑ましくて好きでした。

さて、ラスト近辺ではついに秦王朝滅亡への引き金が引かれ、動乱の幕があけます。タイトルにもある項羽と劉邦の飛躍もまさにこれから。田中くん、ついつい劉邦最初の軍勢立ち上げになぜか巻き込まれるはめになりますが、色々と因縁か因果か出会いの縁が交わってしまうんだなあ。これが、良縁になればいいのですが。いや、実際に良縁にぶつかってやがるんですが、この三十路。おまえ、田横の悲恋にももうちょいなんとかしてあげような。今の所は、どうにもならない別れの先なのですが。
ウェブ版も読んではいたのですが、改めて読んでも飽きもせず面白く読めてしまいました。いやいや、これは実に良い仮想歴史小説でありますよ。間をおかず、二巻も読む予定。