【やがて僕は大軍師と呼ばれるらしい 2】  芝村 裕吏/片桐 雛太 MF文庫J

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のちの大軍師ガーディ、覚醒の時――王道ヒロイック・ファンタジー第2弾!

グランドラ王との戦争での功績により、金貨姫フローリンから故郷タウシノの領主に任命されたガーディ。その役職は名ばかりながらも、ガーディの存在を警戒する姫の臣下も現れた。そんな中、ガーディは自身の存在価値を証明する必要から、亜人種や土着勢力が入り乱れるタウシノの平定を名乗り出る。だが、兵士も連れず傭兵も雇わずに味方は無理矢理ついてきたナロルヴァ一人だけ。誰もが無謀な絵空事だと考えた、たった二人の森州平定戦――それは、大軍師が冴え渡る軍略によりその名が歴史の表舞台に刻まれる燦然と輝く偉業の始まりだった――異端のヒロイック・ファンタジー。第2弾!

中庭で微睡むガーディを、遠く窓から眺めて心慰めていた金貨姫フローリン。近侍などに取り立てる事もなく、ただその姿を様子を見守っていることで満足……はしていないか、我慢していたように姫がガーディに求めていたのはその才能ではなく、慈しみ愛おしんでいたのはその純真無垢さであったと言っていいだろう。直属の上司であるナロルヴァも、金貨姫もガーディの才能は勿論わかっていたかれど、愛したのはその人柄なんですよね。なので、彼の無垢さを打ち消してしまうかもしれない出世は、決して求めなかった。
そんな彼女たちであるからこそ、ガーディもその力を惜しみなく注ごうという気になったのだろうけれど。まあ彼に人の好き嫌い、というのはあまり見当たらないのですけどね。見た目にも言動にも騙されず、その人の言葉や行動の奥底、真意よりも深くにある善意、善心を汲み取っていく。
誰にでも優しくあってしまうという彼の権能は、彼のあり方とまったく矛盾していないが故に彼にとっての苦しみにはつながっていない。つまり、心の底から優しく慈しむ彼の態度は嘘偽りのない強制されたものではないんですよね。その優しさを前にして、多くの人は自分の中の悪意を取りこぼしてしまう。どうしてか、優しさには優しさをもって報いてしまうんですよね。それが、彼のカリスマに繋がっているのではなかろうか。
尤も、彼自身は自分の優しさが報われることについては、とんと無関心なのだけれど。
何気に、森州で隣国の収奪部隊が各地の村落を荒らし回っているのを、ナロルヴァとたった二人で助けて回った時も、決して救った恩に報いるために人が集まってくる、みたいな考え方はしていないんですね。
そこのところは酷く冷徹に、集って反抗の一勢を立ち上げなければ生き残れず、各地を助けて回っている自分たちがその旗頭として必然的に持ち上げられ、その旗のもとに反抗勢力は糾合することになる、という計算が働いている。そこに優しさという感情は計算のうちに含まれていないっぽいんですよね。そしてその計算とは全く別に、彼は本心からみんなを助けたくて、あちこち飛び回っているのだけれど、そういう感情と計算は完全に分け隔てられているのがまた興味深い。

本作が面白いのは、小説でありつつ後世の視点から様々な史料に基づいて語られている話でもある、という所であります。特に今回の戦いからは、ガーディが本格的に歴史の表舞台にあがった戦いとされているからか、多くの史料が残っているという設定らしく、後世からの視点ということでこの物語を書いている作者が作中の地の文にコメントを付与してるんですね。それは歴史的な解釈や解説であったり、エピソードの歴史上の意義であったり、歴史上の人物の史料から推察される心境だったり、幾つも残されている当時の人の手紙や日記から導き出される情景だったり、それらに対する作者自身の感想だったり。
いやあ、読んでてなんかこういう描き方って見覚えがあるなあ、とずっと頭に引っかかりながら読んでたんですが、ふと司馬遼太郎の名前が思い浮かんだんですよね。
そう言えば司馬先生もこういう書き方をしてやしなかっただろうか。あの方の余談の挟みっぷりには定評?がありましたからねえ。
かの御仁に限らず、歴史小説家には少なからず見受けられる描かれ方かもしれないのですが、そう思うとなんだか本格的な歴史小説を読んでいる気になってきて、何ともワクワクしてくるような気分になってくるのでした。
加えて、森州の戦いはリエメンからの侵攻軍による収奪によって、点在する集落が片っ端から襲われ殺され奪われる事により、軍ではなく住民自身が武器を手に取り反抗の軍をあげる、という展開になりました。そういう展開を引っ張り出したのは、ナロルヴァとたった二人でリエメン軍の侵攻を防ぐために乗り込んできたガーディの思惑があったわけですけれど、いずれにしても奪われる側の反抗という枠組みの中には本来森州にも深く根ざしていた人種間の断絶は挟まれる余地がなくなったわけです。まあそこにも、人種を差別する、種族が違うということで分け隔てるという発想を持たないガーディの存在があったからなのですが。
そうして出来上がったのが、種族を問わずに糾合された反抗軍。そして、種族で分け隔てる視点は持たなくても、戦力としては諸種族の特徴、短所長所を見出してそれぞれに合わせた運用を導き出し、それを組み合わせることに何らの戸惑いも持たないガーディによって、各種族の特徴を組み合わせて相互に欠けている能力を補い合い、相互に持ち得る能力を相乗させる戦闘単位。諸兵科連合ならぬ諸種族連合(コンバインドアームズ)。
MBTと書いて「メイン・バトル・タンク」ではなく「メイン・バトル・トロール」と称する所とか、往年の傑作ファンタジー戦記【A君(17)の戦争】を彷彿とさせてくれるじゃないですか。
ちなみに、運用の仕方はもろにタンク――戦車のそれなんですよね、トロール兵。そして、ちゃんとその足回りを狙われると弱い、という弱点を補強するために戦車随伴兵を伴って動かしているところとか。
それ以前にも相互通信可能な羽妖精たちを使っての、戦闘管制を実践していたりするところとかガーディの発想は近代的な軍事運用に繋がるものが散見されたのだけれど、今回本格的に百人を超える人数を動かすに当たって、それがより顕著に顕在化してきたのではないだろうか。つまり、面白い!

しかし、ガーディの手脚となって動く羽妖精たち、彼女たちがガーディの戦術を、近代的な軍事用語に言い換えて好き勝手に喚いているんですけれど、これって単なるお遊びの類なのかと思っていたのですが……。羽妖精たちの声を聞いて、トロールのお嬢さんが何かを未来の一旦を知ったような素振りを見せるんですね。
タイトルの【やがて僕は大軍師と呼ばれるらしい】って、未来を知っている誰かからガーディ自身が聞いたような言葉じゃないですか。特にこのタイトルが作中に意味を持ってくるとは思っていなかったのですけれど、トロールのお嬢さんはこの「やがて」という言葉をこぼしてるんですよね。
羽妖精たちが未来の言葉を使っているのって、もしかして意味があるんだろうか。

たった二人で反抗軍を立ち上げ、リンメイ軍を打破してみせたガーディは、ついにその名望を確かなものとする。確かなものとしてしまう。この戦いを通じて、多くの弱き者たちが彼の知恵と優しさに希望を見出し、その身を寄せようとしはじめる。それに値するだけの結果と能力を、彼は示したと言っていい。それに縋ろうとするもの、期待し守り立てようとするもの。能力に着目しそれを利用しようとするもの。危険視して排除しようとするもの。様々な思惑が彼を中心に飛び交うなかで、フローリン姫とナロルヴァだけが……いや、あえていうなら彼の養子になったテイも含まれるか。ガーディの庇護者たらんと尽力しようとしているのは興味深い。特に彼女たちだけが、ガーディの優しさ故のやわさ脆さ危なっかしさを心配して、守ろう守ろうとしている。特に、権力者である自分に近づけまいとする事でエルフに育てられたが故に人間社会に馴染まないガーディを危険から遠ざけようとしていたフローリン姫は、今回の一件で放っておいても自分の手の届かない所で危ない目に自分から飛び込んでいくガーディにとことん思い知ったようで、彼を近侍に任命することで身近に置くようになる。身近に置いて、手づから世話を焼くつもりであったらしい。世話させるのではなく、自分が世話を焼くために近侍にしてそばに置く、というのは姫様もまあその本性は随分と変わっている。その優しい変さこそが、ナロルヴァと共にガーディが人の世に身を置く理由なのだろう。忠誠とも違う、愛ともまた少し違う、優しい関係。それで成り立つこの主従の、乱世での戦いをこのままもっと最後まで、歴史の行き着く先まで見てみたい。そう切に思う面白さでありました。