【がんばれ農強聖女~聖女の地位と婚約者を奪われた令嬢の農業革命日誌】  佐々木鏡石/匈歌ハトリ TOブックス

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『その慈愛や知識で民を救い、心の拠り所になりなさい』先代の聖女の言葉を守り、必死に知識を磨いてきた次期聖女の令嬢・アリシア。その努力も虚しく、突然双子の妹に立場も婚約者も奪われてしまう。手元に残ったのはぼろぼろの農学書だけ。失意の中、遠い辺境の婚姻話に乗れば、美貌の令息ロランから領地の再建を頼まれて……!? 蜂蜜づくりに幻の薬探し、荒れた農村の立て直しで悪魔のリンゴの売り込みと、我が道を邁進! 奔走する泥まみれの少女の下には、篤農家の村長、元冒険者、隣国の凄腕商人、農民たちが集いはじめる。一方、王国では大飢饉の徴候が出始め――。愚直に生きる農強令嬢が、圧倒的な農業知識で国を救っていく聖女誕生ファンタジー! 書き下ろし番外編&キャラクター設定集収録!

これ、ちょっと婚約者だった王子には同情してしまう所があるんですよね。
先代の聖女である王妃様は、話を聞く限りでは非常に立派な人物であり、ヒロインであるアリシアの人生の師であり指針となる人物でもあったんだろうけれど、家庭人としては決して褒められた人ではなかったのでしょう。
王妃であり聖女という立場上、その人生を国や民のために全部注ぐ、という生き方は当然といえば当然の事なのかもしれないですけれど、その分仕事にかまけて家庭を顧みなかったと言わざるを得ません。
特に息子である王子に対しては厳しく接するばかりで愛情を感じさせる言動はほとんどなかったようで、王子にとっては母親というのはトラウマの対象となっていたようです。
そんな王妃の薫陶を受けて育ったアリシアは、まさに母親の生き写しのような在り方をしていて、王子にとって彼女が伴侶となって人生を共にするというのは、もはや恐怖であり絶望であったのでしょう。
実際、アリシアは王子に対して愛情らしいものは抱いておらず、その心のうちは聖女としての責任感と国を背負うという義務感に支配されているようでした。多分、結婚していてもうまくいかなかったでしょうね、これは。アリシアも、先代聖女と同じように王子に対しては厳しい事義務的なことしか言わない関係になってたんじゃないかな、と想像してしまいます。
アリシアにとっては、教えられた通りに頑張っていただけで、完全にとばっちりで可哀想としか言いようがないのですが。
王族としては、負うべき責任があり国に心身人生を捧げることこそが使命なのでしょうけれど、愛の無い結婚ならまだしも、心の傷をガリガリと常にほじくり返されるような苦しみをこれから一生感じ続けないといけないというのは、地獄も同然ですし、逃げ出したくなった王子の気持ちはわからなくはないんですよね。黙って我慢しろ、と言うのは流石に厳しすぎるでしょう。
まあ、その代わりに選んだ相手と手段が最悪で、庇い立てする余地もなくなってしまうのですが。
婚約者を取り替えるにしても、王太子としてやりようも知恵と謀略の絞りようもいくらでもあったでしょうに、王族としての責任もなにもかも全部放り出す形でトラウマから逃げ出す事に終始してしまったのですからね。
アリシアは、先代聖女の事を心の底から尊敬してるんでしょうけれど、今回の一件はいわば先代聖女の盛大な失敗の皺寄せであり、あおりを食ったとも言えるんですよね。

何気に、農学の知識が聖女から聖女への一子相伝、みたいになっているのも国としては問題をはらんでいるんじゃないだろうか。
まあ歴代の聖女はお祈りベースで、本格的に農学を自然科学の一環として研究して理論立てることをはじめたのは先代聖女から、みたいなので体制を整える暇がなかった、とも言えるのかもしれないけれど、本来なら先代聖女の持つ知識って、次代の聖女一人に引き継ぐものじゃなくて、国家として管理して組織だって教育普及していくべきレベルの事なんですよね。
次代の聖女ひとりに背負わせるもんじゃないでしょうに、と思ってしまう。しかも、この子以外に引き継いでいるものがないから、用意に失伝してしまいかねない危うさですし。
実際、アリシアが聖女候補から降ろされ、適当な家に嫁入りさせられていた場合、先代聖女の培った農学の知識ノウハウ研究成果は、全部散逸していた可能性、高いわけですからねえ。恐ろしい。

とはいえ、この作品の舞台となっている時代を見ていると、合理的論理的な自然科学がいまだ普及しておらず、知識や教養に触れる機会の少ない下層の人間の間には未だ根強く非科学的な迷信が根強く広まり、それが常識となっている時代だ。知識人である貴族や富豪なんかでも、迷信みたいなものは信じていなくても、科学的思考なんてものには縁がなかったのかもしれません。
そう考えると、聖女の持つ知識というのは時代の最先端とも言えるのでしょう。同時に、聖女というのは信仰の対象であり、救済のシンボルであり、非科学的な観念、迷信の担い手であり神輿とも言える立場です。
そういう立場な人間であるからこそ、およそ迷信の反対にある科学的根拠に基づく成果を、研究結果を、知識なく信じるべき拠り所を持たない無知な人々に、届けることができる。
いわば、聖女という存在は科学と非科学の鎹となって、橋渡しをしていく存在になっていたんですなあ。聖女の言葉だからこそ、知識のない人々に届けられる、信じてもらえる。
国家のプロジェクトとして、農学を推進していくには、未だ頑迷で既存のものとは違う存在、違うやり方を受け入れられない下層の人間たちが大勢を締めている現状では、まだ時期尚早なのかもしれません。先代聖女の研究が、アリシアにしか引き継がれなかった、というのも周りにまだそれを信仰抜きで受け入れられる器も余裕もなかったのでしょう。
アリシアが今、辺境の地で行っているのはまさにそれらが受け入れられる下地を作っている段階、とも言えるんですよね。聖女の威光ではなく、純粋な知識として、教育として、科学的思考を……自然科学としての農学を根付かせていく、過渡期を生み出していると思えば、色々とうなずくことが出来ます。
妹のノエルの方は、信仰の象徴としても科学の最先端の担い手としても、聖女の役割を両面とも放棄してしまったために、そりゃあまあ偉いことになりますわな。片方だけ放り投げても、ただでは済まなかっただろうに、両方だもの。

ただおのれの使命に殉じた先代聖女、王妃さま。その生き様が遺した功績は大きいけれど、同時に大きな禍根も遺してしまいました。
先代を大いに尊敬し、その生き方に憧れていたアリシアですけれど、願わくばその失敗までも真似しないでほしいものです。使命にのみ生きるのではなく、個人として一人の女性として幸せになることも忘れないでほしい。一度、全部に裏切られて使命もなにもなくなってしまったアリシアだからこそ、先代の生き方から解放されたんじゃないでしょうか。
そんなアリシアを、ロランは求めた。聖女の知識を求めただけじゃなく、ただ一人の女性としてのアリシアも求めてくれた。無辜の民への無償の愛だけじゃない、自分自身のうちに秘めたる愛情に気づいた彼女なら、先代の二の舞いにはならないと信じてあげたいものです。
ロランの甲斐性も求められるところでしょうけれど。